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Twitter論

Twitter論がかまびすしい。それもよく分かる。何しろこれが一体何なのか、やり始めるといろいろ考えさせられる。

これを始めたころ(といってそれは一ヶ月前だ)、

「あ、twitterって山頭火なのかも。あ、反対か。山頭火ってtwitterしてたのかも。」

ってつぶやいた。

種田山頭火の「つぶやき」のなかでは

「まつすぐな道でさみしい」
「あの雲がおとした雨にぬれてゐる」
「しみじみ食べる飯ばかりの飯である」
「へそが汗ためてゐる」
「濁れる水の流れつつ澄む」

あたりがとても好きなんだけど、「あ、twitterって山頭火なのかも。」をつぶやいた前後の数日間は、要するに俳人に近い心持ちというかちょっと風流な気分でこの新しいメディアに触れてみようという自分がいたように記憶している。自分の頭に浮かんだことを140文字の枠でどう料理するか、どう「詠むか」みたいな。

日本をひたすら旅して句を作りまくった山頭火もきっと「読み手」を意識していたはずで、そういう意識の中で「まつすぐな道でさみしい」と言葉を紡いだ彼はその瞬間、もし手元にiPhoneがあればきっと「つぶやいた」はず、というようなことを思ったわけ。何しろ「私にあっては生きるとは句作することである。句作即生活だ。」とまでいっている人だから、現代に生きていれば「つぶやき」まくったはずだ。 

で、そんなことを考えてtwitterに向かっていたら疲れてしまった。何しろ「詠んだ」ことなどないのだから。

実際にはどうもこんな風にtwitterをとらえているのはかなり少数派らしく(「twitter俳人」っているものなのかな?)、「●●なう」やら「今日はカレー」みたいなつぶやきがあふれてる(「●●なう」への私の屁理屈はこちら)。ひょっとしたらそれは山頭火なら「ほほぅ」というような「句」である可能性もないではないけど(まあ多分違うだろう)。

そんな「つぶやき」の洪水には正直なところ随分と抵抗感があった。「で、それが何?」っていうのは、twitterを試してみた人のごく自然な反応だと思う。

それが最近ちょっと認識が変わりつつある。

一つ一つの「つぶやき」には確かにそれほど意味はなくても、それが束になるとどういう意味があるのか、みたいなことがとても気になってきた。だから、少しずつフォローする人を増やしている。人によっては「とりあえず100人フォローしてみなよ」とアドバイスしているようだけど、まあ一応取捨選択しつつ、基本的に増やしてみようと思ってる。

今この瞬間は、twitterは山頭火なんだ、というよりも、秋山真之の電報の束なのかも、と感覚的には思ってる。

「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

日露戦争の日本海海戦におけるあの有名な報告電報。特定の情報伝達を主目的にした短文。twitterってそれがものすごい束になってネットを飛び交っているようなものなんじゃないか。

まあ文として響きが美しい、というのも個人的にはポイントなのだけど。同じ140文字でつぶやけるなら美しいにはこしたことはない、とは思ってる。まあ少数派の意見だとは認識している。
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2009/08/29(土) | Twitter論 | トラックバック(0) | コメント(2)

twitterの"なう"に関する考察

多少ひねくれたところがあるのは認識している。ただ、みんながやるならtwitterなんてやらない、というより、そんなものであるからこそ簡単に手を出したうえで、「かくかくしかじか、"なう"」とはいいたくない、という程度の軽いひねくれだが。単純に、"なう"は響きとして美しくない、というのがその理由だ。一旦、「当初の」理由、と断っておく(最後まで読んでもらえば「当初の」の意味が分かります)。

しかしなんでそもそも"なう"なのか。

つぶやきはまさにそのタイミングにおける行為なんだから、"なう"は自明だろう。そもそもtwitterは同時性・速報性こそをウリにしているメディアではないのか。いってみれば、基本的にすべてのつぶやきが「かくかくしかじか、"なう"」なのである。なんなら、twitterの140文字のテンプレートの枠外にでも"なう"を表示させておけば済む話である。

しかし、つぶやき手が思わず"なう"をつけたくなる気持ちが分からないでもない。ちょっと考えを巡らしさえすれば、"なう"の後ろにはそれなりの理屈があることが分かる。"なう"をつけるのは、実はこんな条件下においてである。


 1. つぶやきの内容が
   (a) 自らの行為、または、
   (b) 自らの現在地
  を説明する場合であって、かつ、

 2. 読み手に意味が通じる最小限のつぶやきとしたい場合


具体例から入ろう(お、だんだんのってきた)。

「冷珈琲、なう」なら、「今、アイスコーヒーを飲んでいる」
だし、
「喫茶店、なう」なら、「今、喫茶店にいる」
だとほぼ確実に推定できる。

最初の例が1(a)に、次の例が1(b)にそれぞれ該当するわけだ。なぜこのつぶやきからそんな推定できるのか?それは、「冷珈琲」に人間の思考的にもっとも近い動詞が「飲む」であり、「喫茶店」のような場所をあらわす名詞にとってのそれが「いる」だからである。(特別な文脈がない限り)誰も「今、アイスコーヒーを眺めている」とか「今、喫茶店に行きたい」とは勘違いしないのである。ちなみに今日「分娩室、なう」なるつぶやきが増えているという記事をどっかて読んだけど、これはもちろん1(b)のケースに該当する。

これが単に「冷珈琲」「喫茶店」「分娩室」とだけつぶやかれていたとしたらどうなるか。そう、意味が全く分からないのである。くどいけどもう一例を挙げると、「デカルトの『方法序説』、なう」なら『方法序説』を今まさに読んでいる(ちなみに事実だ)と分かるけど、「デカルトの『方法序説』」だけではなんのことかさっぱり分からない。

そう、"なう"は単に"now"="今"を限定的に示しているだけではなく、それに加えて"drink", "be", "read"といった動詞(現在形)を黙示的に併せ持つ2文字なのである

そして、このわずか2文字にそれだけの意味を込められるからこそ、最小限の表記でつぶやきたいつぶやき手によって多用されるのである。現時点における入力デバイスの限界を前提にしたうえで、可能な限り同時性・速報性を担保すべく編み出されたのが"なう"だったのである。

もっとも、つぶやきの中には1(a)(b)以外の内容ももちろんいろいろある。代表的なのが、今まさに浮かんだ自らの思考の内容(思考という行為ではないく、思考の内容そのもの)についてのつぶやきだ。例えば、「山頭火ってtwitterだったんだ」である(ちなみに昨晩山頭火の句集を読んでこの思いを新たにした)。いろいろ例を挙げて試してもらえば分かるが、1(a)(b)以外のケースでは「かくかくしがじか、"なう"」が成立しない。より正確には、そう表記するのは自由だけど、わざわざそうする必要がない。「山頭火ってtwitterだったんだ、なう」という意味がないのである。なぜなら、"なう"があってもなくても同じ意味を伝えられ、そしてそうであるなら同時性・速報性がものをいうtwitterにおいてそうする必要がないのだ。

・・・と、ここまで書いて、やっぱり珈琲男は"なう"を使わないなと思う。

それは単なる"なう"の響きの問題ではもはやなく(響きがよろしくないという思いにいささかの変化もないが)、自らの行為(=1(a))や現在地(=1(b))のみをわざわざつぶやこうと思わないからだ。

どこかの戦地にでも赴いて実況中継するようなことがあれば話は別だが、そうでもない限りにおいては、やっぱり"なう"は使わないことにする。



・・・・、なう。あっ。
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2009/08/12(水) | Twitter論 | トラックバック(0) | コメント(0)

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