今回のモンタナへの短い旅には分厚い文庫本を一冊だけ持っていた。池澤夏樹の「静かな大地」。ずっと読みたかった小説。
御一新で蝦夷の開拓を命じられた淡路の侍たち(そんな史実を全く知らなかった)。その中にあった宗方家の利発な長男三郎は幼い頃からアイヌと交じり、やがてアイヌと手を組んで日高の地を開拓し大規模な牧場を経営する。池澤夏樹の母方の曾祖父たちをモデルにしており、創作と史実が折り混じる。
聡明な三郎は選ばれて札幌官園にてアメリカ式の牧畜や農業の術を学び、そこで身につけた知識とアイヌの知恵をもって牧場をもりたてていく。やがて宗方牧場は最高品質の馬を生み出すようになる。しかし三郎自身は和人とアイヌの間で一人葛藤を抱え、最後は悲しい結末を迎える。
モンタナでこの本を読みながら、アイヌ/北海道、と、インディアン/アメリカ西部がすっと重なるような気がしていた(そういう予想が多少なりともあったからこの本を選んだのだけど)。
この小説の時代設定の19世紀後半はちょうど西部開拓時代に一致し、そして連邦政府騎兵隊とインディアンが各地で戦いを繰り広げていた時期に相当する。アメリカで「フロンティアの消滅」といえば1890年を指す。西部開拓に遅れていたモンタナは各地を追われたインディアンたちの最後の砦となった場所でもある。
三郎はアイヌへの「義」と和人への「情」の間で葛藤する(逆ではない)。頭では和人の行為が道理にもとると理解して自らの意志でアイヌの側に立って生きる道を選びながら、心では和人への申し訳なさを捨てきれるものではない。このあたり、「Dance with Wolves」でインディアン側に傾倒していったケビン・コスナーはどういう設定だったっけ?
札幌農園で西洋式の教育を受けた三郎は繰り返し「合理」重視の姿勢を見せる。「理とは人の屁理屈にあらず、自然の掟の謂いである。万事は自然の掟の内にある。これに従えば栄え、背けば廃る。」その地を知るアイヌに開拓を任せるのが理にかなう。物理学を学んだ池澤夏樹らしい哲学。多分彼の小説が好きなのも、そんなさっぱりした姿勢にどこか共感できるからだと思う。
一方で合理に従った三郎の試みは結局敗れる。この世が合理ではなく三郎が非合理な力に押しつぶされたのか、それとも合理こそが彼を押しつぶしたのか。ここがよく分からない。別にこの小説をその点において批判しているわけじゃなく、むしろここがよく分からないからこそ小説なり物語りという表現形式が取られているものと勝手に理解する。
この小説には語り手が次々に登場する。宗方三郎、その弟次郎。次郎の娘による回顧録にもなれば、砂金堀りなどの脇役たちが自らの言葉で語り出すこともある。そして合間合間に語られるアイヌ伝承の神話。珈琲男が長い旅行に度々持って行く「マシアス・ギリの失脚」と同じ形式。そして近現代日本(もしくは近現代そのもの)とローカルな多様性の対立というのも同じプロット。そしてどちらの小説でも著者の視線は弱者側に寄り添っている。村上春樹のいうところの、壁と卵なら卵の側につく、というのとどこまで同じことなのか、そこまでの理解は珈琲男にはない。
話はがらっと変わるけど、最近小説に凝ってるというのは、単に時間があるということ以外にも、何か理由があってのことのように思えてきた。もしかすると、ビジネススクールというある意味「合理の要約」のようなところに丸一年身を置いたことの反動かもしれない。反動というより、自分のバランスセンサーが働いているということのような気もする。フレームワークで概念化できないこともあるでしょうよ、と。
昔からどこかバランスを取ろうとする自分に気づくことがある。極端にいけない。だから物事を極められないようにも思う。一方でバランス感覚にはそれなりに優れていると思う。いろんな基準を見直したいと思ってここにきたけど、見直しのきかない基準もあるのだろう。なんといってもナイスサーティーズだし。これはそろそろ自分の業だとでも思ったほうがいいのかも知れない。
アイヌとインディアンから随分外れた話になってしまった。ちょっと大袈裟に考えちゃったかな。
![]() | 静かな大地 (朝日文庫 い 38-5) (2007/06/07) 池澤 夏樹 商品詳細を見る |
御一新で蝦夷の開拓を命じられた淡路の侍たち(そんな史実を全く知らなかった)。その中にあった宗方家の利発な長男三郎は幼い頃からアイヌと交じり、やがてアイヌと手を組んで日高の地を開拓し大規模な牧場を経営する。池澤夏樹の母方の曾祖父たちをモデルにしており、創作と史実が折り混じる。
聡明な三郎は選ばれて札幌官園にてアメリカ式の牧畜や農業の術を学び、そこで身につけた知識とアイヌの知恵をもって牧場をもりたてていく。やがて宗方牧場は最高品質の馬を生み出すようになる。しかし三郎自身は和人とアイヌの間で一人葛藤を抱え、最後は悲しい結末を迎える。
モンタナでこの本を読みながら、アイヌ/北海道、と、インディアン/アメリカ西部がすっと重なるような気がしていた(そういう予想が多少なりともあったからこの本を選んだのだけど)。
この小説の時代設定の19世紀後半はちょうど西部開拓時代に一致し、そして連邦政府騎兵隊とインディアンが各地で戦いを繰り広げていた時期に相当する。アメリカで「フロンティアの消滅」といえば1890年を指す。西部開拓に遅れていたモンタナは各地を追われたインディアンたちの最後の砦となった場所でもある。
三郎はアイヌへの「義」と和人への「情」の間で葛藤する(逆ではない)。頭では和人の行為が道理にもとると理解して自らの意志でアイヌの側に立って生きる道を選びながら、心では和人への申し訳なさを捨てきれるものではない。このあたり、「Dance with Wolves」でインディアン側に傾倒していったケビン・コスナーはどういう設定だったっけ?
札幌農園で西洋式の教育を受けた三郎は繰り返し「合理」重視の姿勢を見せる。「理とは人の屁理屈にあらず、自然の掟の謂いである。万事は自然の掟の内にある。これに従えば栄え、背けば廃る。」その地を知るアイヌに開拓を任せるのが理にかなう。物理学を学んだ池澤夏樹らしい哲学。多分彼の小説が好きなのも、そんなさっぱりした姿勢にどこか共感できるからだと思う。
一方で合理に従った三郎の試みは結局敗れる。この世が合理ではなく三郎が非合理な力に押しつぶされたのか、それとも合理こそが彼を押しつぶしたのか。ここがよく分からない。別にこの小説をその点において批判しているわけじゃなく、むしろここがよく分からないからこそ小説なり物語りという表現形式が取られているものと勝手に理解する。
この小説には語り手が次々に登場する。宗方三郎、その弟次郎。次郎の娘による回顧録にもなれば、砂金堀りなどの脇役たちが自らの言葉で語り出すこともある。そして合間合間に語られるアイヌ伝承の神話。珈琲男が長い旅行に度々持って行く「マシアス・ギリの失脚」と同じ形式。そして近現代日本(もしくは近現代そのもの)とローカルな多様性の対立というのも同じプロット。そしてどちらの小説でも著者の視線は弱者側に寄り添っている。村上春樹のいうところの、壁と卵なら卵の側につく、というのとどこまで同じことなのか、そこまでの理解は珈琲男にはない。
話はがらっと変わるけど、最近小説に凝ってるというのは、単に時間があるということ以外にも、何か理由があってのことのように思えてきた。もしかすると、ビジネススクールというある意味「合理の要約」のようなところに丸一年身を置いたことの反動かもしれない。反動というより、自分のバランスセンサーが働いているということのような気もする。フレームワークで概念化できないこともあるでしょうよ、と。
昔からどこかバランスを取ろうとする自分に気づくことがある。極端にいけない。だから物事を極められないようにも思う。一方でバランス感覚にはそれなりに優れていると思う。いろんな基準を見直したいと思ってここにきたけど、見直しのきかない基準もあるのだろう。なんといってもナイスサーティーズだし。これはそろそろ自分の業だとでも思ったほうがいいのかも知れない。
アイヌとインディアンから随分外れた話になってしまった。ちょっと大袈裟に考えちゃったかな。
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2009/08/25(火) | 生活 | トラックバック(0) | コメント(0)