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村上春樹のグローバル戦略

昨晩から読み始めた村上春樹の「海辺のカフカ」を昼過ぎに読み終わる。

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
(2005/02/28)
村上 春樹

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「ノルウェーの森」以降は彼が翻訳した海外モノを読むくらいだったから、久しぶりの村上作品。「僕」と「ナカタさん」のストーリーが章ごとに入れ替わりつつ次第にひとつに収斂していくという構成。「カラマーゾフの兄弟」のようないろんな世界観を詰め込んで絡め合わせた「総合小説」を書きたいと思って選択したそうな(柴田元幸「翻訳教室」P158-159)。昨年の夏に「カラ兄」を読破して一応「カラ兄読了クラブ」に入会してるから(笑)、村上春樹のいう「総合小説」のニュアンスはよく分かる。

しかし村上春樹は海外でよく売れている。よく出張で訪れたイギリスでも、昨年のひと夏を過ごしたフランスでも、そしてここアメリカでも、ある程度の大きさの書店に彼の翻訳本が置いていないことはまずない。なんでも近年の年収は海外分が既に国内分を上回っているのだとか(wikiによる「村上春樹」より)。珈琲男が好きな池澤夏樹はフランスではよく見かけたが(彼が一時期フォンテーヌブローに滞在していたことも影響しているのだろうか)、ここアメリカで目にすることは少ない。

何で村上モノはこうも広く海外で売れるんだろう。

昨日も紹介したカズオ・イシグロのインタヴュー記事にこんなコメントを見つけた。強調は珈琲男によるもの。以下このエントリーを通じて同じ。

イシグロ (途中略)現代作家の中では、好きな作家はたくさんいますが、村上春樹がもっとも興味ある作家の一人ですね。とても興味があります。もちろん彼は日本人ですが、世界中の人が彼のことを日本人と考えることができません。国を超えた作家です。現時点で、村上春樹は現代文学の中で非常に関心を引く何かを象徴しています。人は、日本文化に必ずしも関心がなくても、村上春樹に通じるものを感じるのです。

-村上春樹はそれを意図的にやっていると思いますね。

イシグロ その通りです。私もそう思います。そういう世代の作家がいます。ある程度は、私もイギリスやアメリカの読者だけではなく、国を越えた読者に訴えようとしています。多くの作家がそうしようとしていると思います。彼らは意識的に世界中の読者に訴えようとして小説を書いているのです。文化の壁がないように、そういう壁になりそうな要素をすべて作品から排除するのです。もちろんそれには一長一短がありますが、私も確かにそうしようとしています。


-もし村上春樹が最初から英語で書いていれば、さらに読者は増えるでしょうか。

イシグロ そうは思いません。村上春樹は興味あるケースだと思います、確かに、勇気づけられるケースだと思います。私は彼を非常に才能のある作家だと思いますが、十分に才能があれば、英語で書かなくても、英語に翻訳されればいいということです。彼のもう一つ特異なところは、国を超えたスタイルで書くだけでなく、リアリズムの外側で書いているということです。現時点で、世界中の作家をみても、所謂リアリズムのモードの外で書いてうまくいっている作家はそれほど多くいません。(途中略)興味深いのは、村上春樹はそれほど世界中を旅するわけではないのに彼のスタイルがインターナショナルだということ、そして世界で受け入れられているという面です。リアリズム・モードをうまく破ることができる人には、言わばこういう国を超えたいという渇望があるかもしれません。作家がそうすることに成功すれば、ガルシア=マルケスのように国際的に評価されますね。


なるほど。これをヒントに村上春樹の海外での成功の要因について仮説を立ててみる。で、かなり強引に企業のグローバル戦略と絡めてみる。アホらしいけど、冬休みだからこその酔狂だ。

仮説1: 感覚という普遍性 = 世界標準プロダクト

「ノルウェーの森」にしろ「海辺のカフカ」にしろ、舞台は現実としての日本であり(日本語で書かれているということを別にしても)日本にまつわる様々な「枠」の中でストーリーが展開する。でも、カズオ・イシグロがいうように、リアリティを追求するというよりも、とくに「海辺のカフカ」においてはむしろリアリティを放棄しているといってもいい。むしろ彼が追求するのは、自らの感覚やイメージだ。新潮社のサイトには、「海辺のカフカ」についての村上春樹へのインタヴュー記事に彼のこんなコメントがある。

小説を書く、物語を書く、というのは煎じ詰めて言えば、「経験していないことの記憶をたどる」という作業なんです。


問題は「誰の」記憶をたどるのか、ということだけど、きっと、登場人物を通じた村上春樹自身の記憶、ということなんだろう。登場人物は(少なくとも形式的には)日本人だし、それを利用して記憶をたどろうとする村上春樹自身も(こっちは現実として)日本人だ。でも、その両方が、日本人という枠にとらわれないように細心の注意を払っているように私には感じられる。もちろん完全に枠の外に身を置くのは無理だ。でも、枠のなかに閉じこもってしまうことを強い意志をもって避けているように感じられる。

そうした意志のもとに「経験していないことの経験をたどる」という行為の集積は、きっと、日本人というより一個人としての感覚やイメージの集大成になるのだと思う。そして、その感覚やイメージは、国という枠をこえて、広く人々に理解されるのだと思う。共感されるかどうかは読者次第だけど、少なくとも「分かる」のだと思う。「分かる」からこそ、売れる。少なくとも「分かる」ことが期待できるから売れる。逆に「分からない」「分かりそうにない」なら売れない。小説は経験財だから当然だ。

ビジネスにおけるグローバル戦略にあてはめてみれば、これはローカライズの必要性を最小化した世界標準戦略だといってもいい。プロモーションなりチャネル戦略という意味での売り方はいろいろあるだろう。ただ、プロダクトなりサービスそのものについては最初から世界標準狙い。みんながこのプロダクトなりサービスなりをローカルな調整を抜きにしてそのまま使ってくれるって自信もってますから、というスタンス。かつてのソニーがそうだったろうし、今なら間違いなくアップルだな。

村上春樹がグローバルに本を売るための手段として日本人枠を意図的に外している、とまではいわない。実際には、日本人枠を自らの流儀として外したらいつのまにか海外で自分の本が売れているという現実があった、ということではないか。でも、これだけ自らの本が売れてる今となっては、日本人枠を外すことを以前とは違った感覚で捉えてるのではないか、くらいは推測する。

ローカライズの必要性がないっていっても翻訳こそローカライズじゃん、という話もあるが、それは以下にて。

仮説2: 翻訳の容易性 = フロントを意識したバックエンド設計

池澤夏樹もそうだけど、村上春樹の文章って比較的他の言語に翻訳しやすいように思う。文章の構成がかっちりしていて曖昧なことろが少ないという意味において。そして、村上春樹は明らかに翻訳に対する意識が他の作家に比較しても強いといえる。何しろ、こうまでいっているくらいだ。

(途中略)どうして翻訳をするようになったかというと、やっぱり好きだから家でずっとやってたんですよ。英語の本を読んで、これを日本語にしたらどういう風になるんだろうと思って、左に横書きの本を置き、右にノートを置いて、どんどん日本語に直して書き込んでいきましたね。そういう作業が生まれつき好きだったみたいです。
それで結局、三十歳のときに小説家になっちゃったんだけど、小説書くより翻訳してたほうが楽しい。だから最初に『風の歌を聴け』という小説を書いて「群像」新人賞をとって何がうれしかったかというと、これで翻訳が存分できるということでした。だからすぐにフィッツジェラルドを訳したんですよ。(柴田元幸「翻訳教室」P151)


翻訳は常に彼の意識にあり、自らの作品を執筆する過程においてひとつひとつの文章の翻訳可能性を検証することが、意識的にであれ、無意識にであれ、相当にあるのだと思う。結果として仕上がる彼の作品は、他の言語への移植が比較的すんなりいくのだと思う。そのもともとの意味を損ねることを最小化しつつ。

小説を「読むという経験を売っている」とする立場に立てば、小説を売るのはサービス業に他ならない。生産と消費が同時になされるサービスという業態においては、必ずフロントエンドとバックエンドが存在する。顧客に何かを直接経験させるのがフロントエンドで、そのフロントエンドでの経験を提供者側で支えるもの全てがバックエンドだ。例えば、航空会社のカウンターでチェックインがフロントエンドで、それを支えるコンピュータシステムがバックエンドだ。レンタカー会社の車そのものはフロントエンドだし、それを車庫で掃除する職員はバックエンドだ。

サービスでは顧客から見えるのはフロントエンドしかないため、このフロントエンドでの経験を最適化するためのフロントエンドとバックエンド間の設計が求められる。フロントエンドでの顧客の経験には不確実性があるから(顧客にもいろんな人がいるし、サービスが提供される環境にもいろいろある)、フロントエンドでの自律性を高くすることもあり得るし、逆に同じ理由でフロントエンドの裁量を極端に低くすうることもある。どちらの場合にも、それに応じたバックエンドの設計が重要になる。

こう考えた場合、海外の小説を翻訳モノとして読むとき、翻訳されて活字になった言葉はフロントエンドだし、翻訳される前の原書はバックエンドにあたる。読者は(原本にあたらない限り)原本の活字そのものには一切触れないわけだから、これは妥当な評価だろう。

そして、翻訳がしやすい文章を書く小説家というのは、翻訳本を読者に読ませるというサービスの提供において、最初からフロントエンドを十分に考慮してバックエンドを設計している、といえるわけだ。

「ノルウェーの森」を書いたころの村上春樹が翻訳本を売ることを考えて文章を書いていたかどうかは分からない。でも、今となっては、例えば「1Q84」を書きながら翻訳本を全く意識しなかったといえばそれは嘘になるのだろう。きっと。

1.との関係でいえば、もともとの文章スタイルが翻訳という点においてはローカライズの障害にならないため、あとはコンテンツそのもののローカライズの必要性だけが問題になる、ということだ。で、コンテンツそのものはそもそも世界標準化されているから、そのまま売れる、となる。
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2010/01/07(木) | 雑感 | トラックバック(0) | コメント(0)

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