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1860年をめぐる留学生活の振り返り

母の日の朝ということで近所のカフェに家族で出かける。以前ブログでも紹介したこのLuteciaというこの店の名前は、きっとパリの古い呼称からきているのだろう。

座った席のすぐ後ろの壁に、1860年のパリを描いた一枚の絵が掛けてある。シテ島上空から西を望むイメージ。絵の中央やや右にルーブル美術館。そしてセーヌ川をさらに奥にいった場所にエッフェル塔はまだない。

1860年といえば、オスマンによるパリ大改造が行われていた時期にあたる。世はナポレオン3世による第二帝政期

今から約150年前に相当するこの1860年頃というのは、2年間の留学中に何度も意識した自分にとって象徴的な時代だ。

まずなにより今住んでいるこのフィラデルフィアの家がちょうどその頃に建てられたと大家さんから聞いている。室内は近年に改装されているものの、床と壁の一部は建設当時のものがそのまま残っている。

ちなみにこの家が建てられた頃のアメリカは南北戦争(1861-1865)の時代。フィラデルフィアは当然北軍。両軍の事実上の決戦となったゲティスバーグの戦い(1863年7月1日~3日)はペンシルバニア州での出来事。この戦いにおける戦没者のための式典においてリンカーン大統領が同年11月19日に行ったのが、ゲティスバーグ演説(...government of the people, by the people, for the people..)。

そして選挙時、就任時に何かとリンカーンを自身とダブらせていたのが、現オバマ大統領52th St.で行われた彼の演説に家族で出かけもしたし、ちょっと元気を出したいときにwill.i.amによってアレンジされた「Yes We Can」をこの留学中何度も聴いた。あの時のアメリカの熱気に触れた身としては、大衆の飽きやすさというものが今後も強烈に記憶されると思う。

この時期アメリカは南北では奴隷制度を巡って戦争をしていたが、東から西への開拓も同時に行われてた。そもそも南北戦争は、領土が西部に広がることに伴い、新州に奴隷制を認めるかどうかで南北が対立したことによって引き起こされたもの。西部開拓では各地で連邦政府とインディアンとの戦いが繰り広げられ、この夏に訪れたモンタナはインディアンの最後の砦だった場所。東西から建設が進められていた最初の大陸横断鉄道がユタ州でつながったのが1869年5月10日。

ペリーが黒船に乗って浦賀にやってきたのは1860年の少し前のこと(1853)。このときイギリスは産業革命から既に100年。アメリカも他の西ヨーロッパ諸国と同様に工業化を進展させていたものの、西部開拓により国土が拡大することに専念していたために他の先進諸国に比較して海外の植民地開拓は進んでいなかった。黒船来港は日本の視点からは「太平の眠りをさます」ものだったが、アメリカから見れば極東地域へのアクセスの確保という目的によるものだった。

ちなみにペリーが乗船していたサスケハナ号を造船したのはフィラデルフィア海軍造船所(Philadelphia Naval Shipyard)。フィリーズやイーグルスの本拠地が位置するスポーツコンプレックスのすぐ南に存在したアメリカ海軍最初の造船所。

そしてまさに1860年頃に人生のピークを迎えたのが坂本龍馬。そしてその前後に活躍した幕末の志士達。

幕末の志士

これはフルベッキ写真と呼ばれる有名な集合写真。オランダ人写真家、フルベッキを囲んで佐賀の致遠館の塾生を写したものとされるが、坂本龍馬・勝海舟・大隈重信・西郷隆盛・高杉晋作らも写っていると主張する人もいるようだ。

これが写されたのは1868年、すなわち明治元年のことらしい。明治維新以降、日本も西洋列強に遅れて工業化を進め、そして「坂の上の雲」に向かって突き進んでいく。

この時期、黒船に象徴される工業化の波は海外からに日本に押し寄せたが、逆に日本から海外に出ていったものといえば、まさに1860年の万延元年遣米使節。1854年の開国後の最初の公式訪問団。2月に出発した一行はサンフランシスコに到着後、パナマの陸地を汽車で横断、ワシントンでブキャナン大統領に謁見、さらにフィラデルフィアも6月9日から6日間滞在している。ということは、今住んでいるこの家は、勝海舟や福沢諭吉がフィラデルフィアに滞在していたまさにそのときに建てらていたのかも知れない。

それから当時日本から世界進出したのは、浮世絵に代表される芸術作品。1867年のパリ万国博覧会には江戸幕府が多くの美術品を携えて出展した(ちなみにこの当時の混乱を示すように、薩摩藩、佐賀藩も独自出展している)。ただ、この万博で初めて日本の芸術作品が注目されたというよりは、幕末の混乱に乗じて万博以前から多くの浮世絵や陶磁器がヨーロッパに輸出されて高い評価を受けていた。パリ市民からすれば、素晴らしい芸術を有しながらも世界から孤立する謎の国ジャポンが遂に国を開いてパリにやってきた、といったところだったか。

当時パリを中心に発生していたジャポニズムの衝撃は多くの芸術家に影響を与えた。19世紀末から20世紀初頭にかけて写実主義から抽象主義へと変化において、印象主義はその初期段階であると考えられているが、ジャポニズムはその印象主義への変革に決定的な作用を及ぼしたとされる。それまで絵画は写実的でなければならないとされた規範に対して浮世絵が与えた衝撃は想像に難くない。

昨夏にINSEADへの交換留学のために滞在したフォンテーヌブローは写実主義のひとつバルビゾン派が生まれた場所。またバルビゾン派にもその芽が見られるという印象派、特に後期印象派の作品は、ここフィラデルフィアが誇るバーンズ・コレクションが世界最高峰の展示をすることで知られる。つい先日両親を連れて訪れたが、ピカソの横にアフリカのお面を並べるような自由な展示をしながらも浮世絵が一枚としてないのはどういうことだろうね、と父がつぶやいていたが、それはジャポニズムが印象派に与えた影響を考えればまさにその通り。バーンズ博士はどうして浮世絵を一枚として買わなかったのだろう。

ちなみにフォンテーヌブロー城はナポレオン3世によるフランス第二帝政の舞台。そして、彼を甥に持つナポレオン・ボナパルトもパリから程近い狩猟地だったこの城にしばしば滞在している。

最近ホーキング博士がやっぱりタイムトラベルは実現可能だと発言して物議を醸しているそうだけど、もしどの時代にもいけるなら、1860年頃の日本なんて相当面白いだろう。そしてその当時に、この2年間で経験したように、アメリカとフランスの両方に留学できたとしたら、と考えるだけで身震いがする。
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2010/05/09(日) | 雑感 | トラックバック(0) | コメント(1)

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2010/05/10(月) 06:35:18 | | [ 編集]

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